自分らしく生きる
2016-12-22
#12 ミーシャ·ジャネット / ファッションディレクター

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「年齢に関係なく、とにかく自分のスタイルを信じることが大事なんです」

ファッション好きの人ならば誰もが知っているミーシャ·ジャネットさんは、東京のファッションアイコンの一人として、さまざまな方面から注目を浴びています。世界中のファッショニスタが購読するブログ「Tokyo Fashion Diaries」をはじめ、国内外のメディアで連載を持つファッションジャーナリストでありつつ、スタイリストやデザイナーなどとしてもマルチに活躍。2013年にはBusiness of Fashionの”世界のファッション業界を動かしている500人”にランクイン。2016年には繊研新聞が行った服飾系専門学校生のアンケート「尊敬するファッション業界人」で、米国版『ヴォーグ』編集長のアナ・ウィンター、イッセイミヤケ、川久保玲、山本耀司などに続いて8位に選出。今回は、流暢な日本語を話すミーシャさんと日本との出会い、また彼女がファッション業界で独自のポジションを築くまでの道のりを語っていただきました。

――ミーシャさんが生まれ育ったワシントン州のスポ―ケンという町はどんなところで、小さい頃はどんな子供でしたか?

スポ―ケンは人口50万人くらいの街で、日本では大きい方かもしれませんが、アメリカでは小さな田舎町。シアトルから車で5~6時間で、まわりに何もない場所でした。兄弟は弟がひとり。母がミシンで洋服を作るのが趣味で、よく好きな生地を選んで好きなスタイルの洋服を作ってもらったりしていました。昔はファストファッションもなかったから、自分で作るほうがコスパもよかったんですね。で、私はその残布を腰に巻いたり頭に付けたりして、ドレスアップするのが大好きでした。アメリカでは小学校の登校初日のコーディネイトがすごく大事なんです。だから幼稚園が終わった夏からもう、その初日のコーディネイトをずっと考えてるんです(笑)。みんながみんなというわけではありませんが、私はその頃からファッションが好きでした。

――最初に日本とのつながりを持ったのはいつですか?

小4の時の先生が日系人で、折り紙や和菓子について教えてもらったり、女子大生のペンパルを紹介してくれたんです。そのペンパルの手紙の便箋とかがいつもすごくかわいくて、キティちゃんとか、シールとかも貼ってあって、中に折り紙とかも入れてくれて、毎回とても楽しみにしてました。その頃から日本の美意識には触れていました。でも90年代でまだネットもないし、いいなあと思っても、その時はそれで終わりでしたね。

――その後、西宮に留学しますが、きっかけは?

高校の時に1年早く単位を取り終わって、それで最後の1年で海外留学したいと思いました。ファッションが好きだから、当初はずっとパリ行きたいと思ってフランス語を5年間勉強してたんです。でも、パリは交換留学制度がなくて、自費だとホームスティも高いし、お金持ちじゃないと無理だった。で、どこかほかの都市はないかと思って調べたら、スポ―ケンと西宮が姉妹都市だったんです。しかも留学制度があったので応募しました。当時はちょうどポケモンが人気があって、私たちはジャパニメーションって呼んでたんですが、それで再び日本に対しての興味がわき起こったんです。ラルクとか、音楽も好きで、それで日本語の勉強も始めて、西宮の交換留学生になりました。西宮は梅田まで電車で15分だし、ものすごく楽しかった。日本の文化は自分の性格に合ってると思いました。

――たとえば、どういうところですか?

アメリカ人はとにかくうるさい(笑)。そして、一番うるさい人が一番かっこいいって言われる。そういうのが、すごくバカだって思ってました。日本人は言いたいことがあっても、うるさく言わない。時間はかかるけど、ゆっくり話して丁寧に説明する。コツコツとやって成功して初めてリスペクトされる。そして一度認められると、その評価は簡単には落ちない。アメリカは、若くてかっこいいだけでスゴイって言われたり、言いたいことをちゃんと考えないですぐ発言する人も多い。そういうのが好きじゃなかったから、西宮にいた時に、そのあたりの日本人の感性にはすごく共感しました。若い頃は私も、「私はみんなと違うんだから、もっとリスペクトして!」って子供みたいに思ってたこともあるけど、東京出て来て13年になるんですが、やっぱり今みたいに人々に認められるまでには、そのくらいの年数がかかるんですよね、フツーは。

――西宮時代、日本の高校の制服はどうでしたか?

私の学校は制服がかわいくなかったんです(笑)。リボンとかもなくて、ちょっと地味な感じ。アメリカでは髪も染めてピアスもしてたので、お洒落ができないのがちょっとストレスだった。でもアメリカ村に行くとオレンジのカラータイツとか、色使いがファニーなものがいっぱいあったりして、面白いなあって思ってました。オレンジのタイツに緑色のボーダーセーターとか合わせてる人を見ると、本当にショッキングだった(笑)。あの頃はファストファッションがまだなかったし、まだ10代でお金もないしバイトもできないから、洋服もお正月のバーゲンでしか買えなかったけど、楽しかったです。

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――その後アメリカに戻って、どういう経緯で再び日本に来たんですか?

大学ではグラフィックデザインを勉強してましたが、やっぱりファッションの勉強がしたかった。でもニューヨークとか行っても、ファッション業界と縁もコネクションもない。それでいろいろ調べたら日本の文部科学省の奨学金制度があって、その制度は3人しか枠がなかったけど、試験を受けたら合格したんです。でも本当言うと、たぶん合格はしてなかったんじゃないかと思うんですよ(笑)。数学の試験は、日本のセンター試験と同レベルなんですが、アメリカ人は子供の頃からずっと授業でも電卓を使ってるから、電卓なしでレベルの高い数学はまず無理。でも毎週シアトルの日本大使館まで車で行って、過去問をそこで勉強して、日帰りで何度も通って、その頑張ってる姿を見てくれたんじゃないかなあ。あと希望がファッション関係だったので、数学はできなくていいんじゃないかなと思われたかも。面接でも西宮留学時代の話をしたりして(笑)。それでともかく合格して、文化服装学院に入学することになりました。

――再びの日本で、思い通りにファッションの道に進んだわけですね。

最初は文化服装学院は課題も多くてすごく大変だって聞いてたので、ちょっと怖かった。でもスタイリスト科は、それほどハードじゃなくて、すごく楽しかった。在学中にオリビアというシンガーと出会って、それがきっかけでスタイリストの仕事をするようになったんです。オリビアのライブを一人で見に行ったら、学校の同級生がいて、その同級生がオリビアの知り合いで、それでお寿司を食べに行ったりクラブに一緒に行ったりするうちに、私のスタイルを気に入ってくれて、面白い衣装を作ってって頼まれたんです。私が学生じゃなくて、たまたま日本に来てるアメリカ人のスタイリストと思ったみたいで。でも当時はまだショールームとは無縁だったし、コネクションも全然ない。でもそれはすごくいいチャンスだと思って、学校の先生に、学生が作ったショーの衣装を貸してって言って、それをアレンジしてライブの衣装として使ってもらったりしました。

――それが初仕事になったんですね。

そうです。それで名刺も作って、すぐに作品撮りをしてブックもつくって、人脈作りに励みました。アメリカはインターン制度があるけど、日本はない。それはヤバイ、卒業した時点で何の経験もないとアメリカに戻っても仕事が見つからない、それは大変だと思った。だから周りの日本人の生徒は何もしてなかったですけど、私はいろいろ活動していました。高校生の延長みたいに、ただ学校通って授業を受けてテスト受けてっていうのは、自分には合わないと思った。

――でも結果的にはアメリカには帰らず、ずっと日本で仕事を続けるんですよね?

在学中からすでにスタイリストの仕事をしてて、ただ人脈がなさすぎて、それ以外は仕事が来ないという状況でした。それで学校は卒業しましたが、ビジネスの知識はないし、あと滞在ビザも必要だったので、まずはちゃんとした会社に入らないといけなかった。でもファッション関係の会社は、一番下っ端だと給料がすごく低い。それはヤバいと思って、外資系の貿易関係の会社に入って1年間秘書の仕事をやりました。それがいい経験になった。ビジネス日本語とか電話のとり方、請求書の発行の仕方などを、そこで勉強することができたんです。ファッションの仕事をフルタイムでやりたいと思っていたんですが、会社を辞めた時はちょうどリーマンショックで、なかなか仕事がなくて大変でした。そんな頃に『ジャパンタイムズ』でコラムを書いてほしいと言われたんです。私は文章の勉強なんかしたことないから、新聞で書くなんて無理!って思ったんですが、文章は編集者が推敲するし、日本のファッションマーケットについて書ける人が他にいないからって。そこから私の名刺の肩書がファッションジャーナリストになりました。

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――ジャーナリストとして仕事をする中で、新たな出会いもいっぱいありましたか?

はい。『ジャパンタイムズ』で東京コレクションをレポートする機会がありました。海外のコレクションって、会場に来ている人もすごく華やかじゃないですか。でも日本はなんか地味。それで、知り合いのブランドのショールームに電話して、「服を貸してください」って言ったんです。そうしたら「どういう雑誌でどういう企画ですか?」って聞かれて、「いや、特に雑誌とかじゃなくて、ただ東京コレクション期間中に自分が華やかな服を着て雰囲気を盛り上げたいんです」って(笑)。そうしたら「ちょっと検討させてください」って。あまりに急で唐突なお願いだったんですけど、結局OKがもらえて、友人のデザイナーが作った大きな帽子とか被ったりしてたら、『装苑』がスナップを撮ってくれて、 “ミーシャの1週間コーデ”というページを作ってくれたんです。それでそのショールームがすごく喜んでくれて、その時から「毎年着てください」って言われるようになりました。

――当たって砕けろ精神で、すごいですね!

そうなんです。で、その後にインスタとかファッションブログを始めて、私のファッションに個性を感じてくれる人たちからスタイリングもお願いされるようになりました。

――すべてにおいて自分から積極的に動いてチャンスを掴みとってきたんですね。ブログの反響も大きかったんですよね。

そうですね。ブログを始めたのは、東日本大震災があったこともきっかけでした。震災の後で、海外の記事を読んだりしてると、「日本はもう終わり」とか「ギャルソン以降面白いブランドも出てきてないし」みたいな、結構ひどい記事があったんです。特に震災直後は、東京コレクションも中止になって観光客も来ないし。でも実際はちゃんとした情報が海外に届いていないだけで、日本には若くて才能のある面白いデザイナーもいる。ただ、それを発信できる人がいないだけだと思って、それでブログを始めたんです。最初は英語だけだったんですけど、当時の『装苑』の編集長から、「私も読みたいから日本語でも書いて」って言われて、面倒くさいって思ったけど(笑)、日本人の若いアシスタントを付けて、英語と日本語で、当時は写真もちゃんとカメラマンに撮り下ろしてもらって、週6回とか情報を発信してました。でも、1年以内に海外に呼ばれなかったらブログはやめるって考えてた。でも1年以内にグッチからミラノに来てレポートを書いてくれって連絡があったんです。それで、わ~やったー!続けようって。

――その後はSNSの時代になり、情報の発信の仕方も変わってきましたか?

SNSをやるようになってから、ブログは週に1~2回になっていますが、でもインスタとかだと、やはりコンテンツが薄過ぎる。ブログでちょっと長い文章で丁寧に言いたいことをちゃんと伝えることも大事で、その方が仕事の依頼もちゃんとくるんですよね。でも仕事じゃなくて書いていることのほうが8割くらいかもしれない。私自身がラブリーと思って、自分が使いたいと思うようなものしか紹介したくないし、やっぱり常に本当のことを言いたいから。

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――今はジャーナリスト、スタイリスト、ブロガーなどさまざまな肩書きがありますが、どこに比重を置いていますか?

それはその日によって違う。今日はインタビュー受けて、そのあとブログ用の取材をして、そのあとファッションショーの打ち合わせとか、自分自身がカメラの前にいたり後ろにいたり、その時々で変わるんです。そのバランス感覚が楽しかったりします。今はほとんど何でも自分でやっていますが、年内には自分の会社を立ち上げる予定です。

――日本に来た当初、「ファッションの世界でこうなりたい」というビジョンみたいなものはあったんですか?

最初は全然なかった。雑誌に出たいな~って軽く思ってたくらい。自分の個性が活かせる仕事ができればいいなあとは思っていました。でも、今は”世界のファッション業界を動かしている500人”に入ったし、“尊敬するファッション業界人”の8位になった。ちゃんとした人間になれたって思った(笑)。今は文化服装学院で講義をすることもありますが、いつも言うのは「今人気の仕事はあと3年で終わってるかもしれない」ってこと。特にITの世界は。私が学生の頃はYoutubeはまだ存在してなかったけど、今はそれだけで稼いている人もいる。だからいつもオープンマインドでいたほうがいい。私も常にアンテナを張って、スタイリストだけじゃなくて、常にいろんな方面を見ながら柔軟性を持ってやってきましたから。

――そんな中で苦労したのは、どんな点でしたか?

一番大変だったのが、日本の文化、ビジネスの知識や交渉に慣れることと、自分に自信を持つことを両立させることでしたね。海外では自分で犯した過ちじゃなければ絶対に謝らないけど、日本は自分のせいじゃなくても、とにかくまず謝らないといけない。そのマインドになれるのには時間がかかりました。日本の文化をナビゲートする仕事をしながら、うっかり失礼なことを言っちゃったり、締切に遅れて仕事がなくなったりとか。自分はやっぱりダメなんだろうかって落ち込んだりすることもあったけど、今はそういうこともなくなりましたね。もう日本でのキャリアも長くなって、周りの人たちも大好きだし、今は海外に行くと、ちょっとルーズなところに逆に違和感を覚えるくらいで、海外から仕事が来ると、「日本は厳しいから、ちゃんとしてくださいね」って言ったりしてます(笑)。

――では自分のやりたいことに向けて頑張ってる女性たちにアドバイスをお願いします。

日本の女性は歳をとるとあきらめちゃう人が多いですよね。 「私にはできない」とか「自信がない」とか。でも、外国人の私が日本でこれだけ自分のスタイルを楽しんでいるわけだし、すぐに決めつけるんじゃなくて、もっと前向きになってほしいです。私は今33歳で、20代の頃に比べたらやっぱり歳をとったって思うけど、最近、ベルリンですごく歳下の素敵な人と出会いました。

――それはラブの話ですか?(笑)

そうです!それで自分はもう歳だって感じちゃうこともあるけど、全然まだまだいけるって思った(笑)。だから、今はキャリアをつまないととか、そろそろ子供を産まないととか、そういう感覚じゃなくて、女性だからこうしないといけないとか、そういうことでもなくて、とにかく自分のスタイルを信じることが大事だと思います。それからジャーナリストとしていろいろな人を取材していると、成功している人はみんな、まわりにすごくナイスなんです。全然怖くないしスノッブじゃない。自分の部下や外部の人に対しても、とにかくすごく丁寧。自分に自信があれば、すべての人にナイスになれる。自分も常にそうありたいと思っています。

5_dsf0207ハッとするほど美しくて笑顔もチャーミングなミーシャさん。何よりポジティブな性格で我が道を突き進んでいくその姿勢が、多くの女性フォロワーを生んでいます。取材・文=freesia編集部 撮影=松井康一郎
ミーシャ·ジャネット Misha Janette

1983年米国ワシントン州生まれ。ファッションを勉強するため2004年に来日。文化服装学院スタイリスト科卒業。貿易会社勤務を経て、英字新聞『ジャパンタイムス』でコラムを担当。ファッションジャーナリストとして活動を開始し、国内外の様々な媒体へ記事を寄稿。ファッションディレクターとして米国トップアーティストのニッキーミナージュや倖田來未などの衣装も手掛ける。2011年よりファッションブログ「Tokyo Fashion Diaries」を英語、日本語のバイリンガルでスタート。海外コレクションやラグジュアリーメゾンに招待されるほど注目を集め、NHK 国際放送の Kawaii International のホストなども務める。2013年Business of Fashionによる「世界のファッション業界を動かしている500人」にランクイン。2016年は繊研新聞による調査アンケート「尊敬するファッション業界人」にて、アナ・ウィンターやイッセイミヤケ、川久保玲などに続いて8位に選出される。
http://www.tokyofashiondiaries.com/